ま、いっか!
主の御名を賛美します 先日、ある方に質問されました。 「教会は聖なる所でしょ?」「ではなぜ教会でも争いが起こるのですか?」 私はこのことを聞いて、少し違うなと思わされました。 教会は聖なることを求めている者たちの集まりで、教会で争いが起こるのは 自然なことだと思いました。 イエス様の弟子たちでさえ、イエス様が神の福音を語っているそばで、誰が 一番偉いかを言い争っているほどです。 私は聖餐式の祝祷の最後に、いつも「栄光が世よ限りなくイエス・キリストに ありますように」と祈ります。 しかし、人間の集まりである教会もいつの間にか、自分の利益を求めてしまった り、自己実現の場所にしようとする者たちもいます。 そんな中で、旧約聖書の預言者たちはいつも「悔い改めて、神を信じなさいと」 語ってきました。 私たち牧者に欠けていることは、教会の中で争いがないことが恵ではなく、 時には激しい言葉をもってでも真実を語っていかなければならない時もあります。 一概に争いがないのが良いこととは、考えられません。争いがないのは、なぜで しょうか?教会で、本当に言いたいことを言
天に宝を積む
主の御名を賛美します 今週、東北部会の総会に参加してきました。 「天に富を積みなさい」という個所から何度もメッセージを受けました。 牧師の働きを考えてみると教会で長年働いて、一生懸命頑張れば頑張るほど 自分の財産を教会の働きに使いながら伝道していると、いつの間にか教会を 自分の持ち物のように感じてしまうことがあるのです。 これは、多くの教会が同じ過ちを犯してしまっています。 神と富に仕えることは出来ないと聖書にあるように、いつの間にか教会を 私物化してはいないでしょうか。教会は、神様のもので私たちがなすべきことは、 天に宝を積むことです。目に見える行いや業は、人には喜ばれるかもしれま せんが神様は喜んでいるでしょうか。 まるで、私に語られているかのようなメッセージを聞いて来ました。 東北の教会も教師の働きが長くなれば長くなるほど、牧師を神のように考えて しまっている信徒が多くなっているそうです。 教会でよく耳にする祈りは、特定の牧師の名前を挙げて祈る場合があります。 しかし、間違ってはいけないのは、牧師の名前を挙げて祈るのではなく 教会に遣わされ
教会訪問
主の御名を賛美します 今週、月曜日から水曜日まで根室・阿寒・帯広と教会を訪問 してきました。 地方で、一生懸命頑張られている先生たちとお会いし、楽しい 交わりの時を持つことができ感謝でした。 北海道で、3人の先生たちはそろって同盟の為にいつもお祈りして 下さっていることと、伝道に励んでおられることを聞いて、とても 励まされて帰ってきました。 今自分が立たされている場所で、喜びを持って咲いている姿を見ると 教会はやはり、人数ではなく祈りとメッセージの大切さを考えさせ られました。 しかし、地方に行けばいくほど厳しい現状になるのもよく理解でき ます。過疎化しているような場所でどのように伝道をすればよいのか そして、地域の教会としてどのように建っているのかで大きく違いが でてきます。 しかし、あきらめずに喜んで伝道されている姿をみると勇気が与えら れ、同盟としてどのように一緒に歩むことができるのだろうかと考え させられました。 また、総主事としての訪問も喜んでくださり地方の教会に実際訪ねる ことの大切さも改めて考えさせられました。それほど、どこの教会も